こんにちは!自粛生活も長くなり、ストレスを抱えている人も多いかと思います。私も遠くに行きたい病です。コロナが明けたらまずはピーチのポイントが失効されないうちに高野山に行きたいなぁ🛫
ここ1カ月ばかり、スローな生活をしています。日中は学校が始まらない娘たちと3人でいることがほとんどです。夜は夫が早く帰宅するので家族全員で早い時間にご飯します。こんな時、自分の食べる分まで面倒を見てくれる夫や娘たちがいることに感謝します。
仕事はないものの、今までできなかったことにチャレンジしたりそれはそれで充実しているのかもしれません。しかしいつまでこの状況が続くのかなぁ~とか、夏の甲子園はどうなるんだろう・・・(ワタシにとっては非常に大切)と考えはじめると、先が読めず凹む時もあります。そんな時は先祖の研究史を手にするようにしています。
私の先祖である長南和泉守(ちょうなんいずみのかみ)さんは伊達藩の庇護のもと廻船問屋と松島の島々に松を植える事業をしていました。これは先祖が使っていた舟印をベースに仙台ふららんさんの家紋ワークショップhttps://www.sendai-furaran.com/516.htmlでデザインしたマイ家紋です。
「山に七」・・・この七という字は先祖の長南七郎忠治さんの名前からとった七です。七郎さんは平安、鎌倉時代の義経公の家来で先祖代々のお侍さんの中で一番強かった人なんだそうです。下の錦絵の右から四人目に長南七郎忠春さんの名前があります。
私の先祖は約400年前、里見八犬伝の里見家の水軍で司令官のような役割を担っていました。大坂夏の陣で豊臣方につき敗戦し、伊達政宗公を頼って寒風沢にやってきました。それは里見家(ボス)を失い、再度サムライとして雇ってもらうためだったのです。しかし伊達政宗公は豊臣方についた一族をそのまま侍として採用することはしませんでした。危険ですし当たり前のことです。
平安末期から約500年続いた武士一族は粘りに粘ったものの、泣く泣く寒風沢で刀を置き農民になりました。寒風沢に上陸し刀を置くまで伊達政宗公との交渉は1年半から3年とも言われています。
この和泉守さんの行動をその当時の上総の国(千葉県)から一緒にやってきた36名の部下たちはどう思ったんだろうと考えるのです。和泉守さんはその当時の風潮で武士は切腹が英断だったので、非常にカッコ悪い人に見えたかもしれません。しかし彼は部下たちと生きることを決め、非常に難しく厳しい選択をし、つらいけど生き延びたとしか思えないのです。だから交渉もねばりにねばったのではないかと思うのです。
政宗公は侍としては採用しませんでしたが、一族の実力を認め、廻船問屋として大きな仕事を授けてくださいました。瑞巌寺の九十九世の雲居(うんご)国師は和泉守さんに松島に松を植えることを相談したそうです。下の画像はその当時の和泉守さんへ雲居国師が書いた賞状で実物は瑞巌寺に保管されているそうです。生きているうちに一度実物を拝見してみたいと思っています。画像は研究史よりスマホで撮影しました。
逆境にいてもあきらめず、淡々とやるべきことを進め信頼を築いてきた人なんだと想像します。遠い昔の先祖ですがとても尊敬しています。
今、コロナでみんな大変です。私も自分のことでいっぱいいっぱい。けど郷土史を手にしては先祖のことを思い元気になれるものです。
地元松島の観光業や宿泊、飲食業をやっている経営者たちは厳しい状況の中、自分たちがやるべきことをし、我慢しながら過ごしています。どうか皆さん、松島を応援してください。ゴシュランウォーキングツアーもコロナが落ち着いたらフル稼働で運営しますのでその時はよろしくお願いします。
どれ、桜パトロールの時間だなぁ~ランニングに行ってきます😊
御朱走ウォーキングツアー 鈴木由美子
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